016 酒仙李白
新年度がスタートした。新たな気持ちで仕事を始めた人たちも多いだろう。しかし新たな始まりは新たな終わりへの始まりでもある。昨3月は、ボクの身辺の会社勤めの人たちの異動がいつもより多かった。少し寂しいような会にも呼ばれた。
こんなときには李白を思い出す。李白は701年に生まれて62年間の生涯を旅に過ごした。仕事のためにツテを求める旅があり、仕官の旅があり失意の旅もあったが、結局のところその旅の長さは尋常なものではなかった。金陵(現在の南京)を中心に、中国全土をほぼ塗り潰すように歩き回る。
この詩人は各地で友と出会い、多くの若者を惹きつけた。しかしそうした新たな出会いは同時に新たな別れの始まりにもなった。李白に送別や留別の詩が多いのはそのためだろうと思う。
広島に李白という酒がある。父は一升瓶の6本入りを4ケースずつ買い求めていたことがあった。広島に京城大時代の友人がいて送ってもらっていたようだ。父は李白が好きで、それでこの酒をことさらに好んだのかも知れない。
李白は後に詩仙と言われるが、むしろ酒仙というほどの酒飲みであったようだ。だからいっそう別れの詩が似合う。
金陵酒肆留別
金陵の酒肆(しゅし)にて留別す
風吹柳花満店香 風 柳花を吹きて 満店 香(かん)ばし
呉姫圧酒喚客嘗 呉姫 酒を圧して
客を喚(よ)びて嘗(な)めしむ
金陵子弟来相送 金陵の子弟 来たり相送り
欲行不行各尽觴 行かんと欲して行かず
各(おのおの) 觴(さかずき)を尽くす
請君試問東流水 請う 君 試みに問え 東流の水に
別意与之誰短長 別意は之(これ)と 誰か短長なると
李白が25歳のころの詩だと思われる。留別は旅立つ側が見送る人に詩を贈ること。逆に送別は見送る側が旅立つ人に詩を贈ることだ。最後の2行、筧久美子さん(神戸大学名誉教授)は次のように訳している。
どうか君たち 東に流れてゆく川の水に尋ねてくれたまえ、
別れのつらさは流れる水と どちらが深く長いかと。
(『李白』角川ソフィア文庫)
ちなみに引用元の角川文庫は、ビギナーズ・クラシックの一冊。日本の古典や中国の古典を初心者用に編んだもので、いずれもオリエンテーションや解説が秀逸である。
古典に触れるコツは、原典が掲載されていること、初心者向けであること、の2点を大切にするとよい。原典は読みにくいし読めなくてもよいのだが、見ているだけで原典ならではの力や調子や想が伝わってくる。また初心者向けに書くことは専門家向けに書くことに比べて数層倍の力量が必要だから、初心者向けを読めばわかりやすい上に極めて高度なレベルに触れることになるのである。
017 送別二題
しかし李白はやはり送る詩がよい。下の送別二題はことさらである。
黄鶴樓送孟浩然之廣陵
黄鶴樓にて孟浩然の廣陵に之(ゆく)を送る
故人西辭黄鶴樓 故人 西のかた 黄鶴樓を辭し
煙花三月下揚州 煙花 三月 揚州に下る
孤帆遠影碧空盡 孤帆 遠影 碧空に盡き
惟見長江天際流 惟だ見る 長江の天際に流るるを
魯郡東石門送杜二甫
魯郡の東石門にて杜二甫を送る
醉別復幾日 別れに醉うこと 復(ま)た幾日ぞ
登臨偏池臺 登臨は 池臺に偏(あまね)し
何時石門路 何(いず)れも時にか 石門の路にて
重有金樽開 重ねて金樽(きんそん)の開くこと有らん
秋波落泗水 秋波 泗水に落ち
海色明徂徠 海色 徂徠に 明るし
飛蓬各自遠 飛蓬(ひほう) 各自 遠し
且盡手中杯 且つは 盡くせ 手中の杯
孟浩然は「春眠 暁を覚えず」で有名な自然詩人。科挙の試験に失敗し故郷に帰る孟浩然を送る詩。10歳年上の先輩の就職の失敗は、李白にとっても痛切をもって迫っただろう。
杜二甫は杜甫のこと。孟浩然とは逆に11歳年下の後輩。このとき李白は長安の宮廷から追われ、杜甫は科挙の試験に失敗し続けていた。李白の周りは自身も含めて挫折を身にまとったような存在ばかりだった。だからこそ、男の友情は厚いものだった。最後の2行<飛蓬各自遠 且盡手中杯>は、
これからは風のまにまに飛ぶ蓬(よもぎ)さながら、それぞれに遠くさすらう身にとはなる。まずはこの手の中の杯を干そうじゃないか。(筧久美子訳・前掲書)
018 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
別れと酒とくれば于武陵(う・ぶりょう)の『勧酒』だろう。
勧君金屈巵 君に勧む 金屈巵(きんくっし=金の杯)
満酌不須辞 満酌、辞するを須(もち)いず
花発多風雨 花発(ひら)いて 風雨多し
人生足別離 人生 別離足る
于武陵は李白の100年後に生まれた晩唐の詩人。日本で『勧酒』が一入(ひとしお)のものになったのは井伏鱒二の訳を得てからである。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
019 不器用な人生にこそある花
井伏鱒二の訳にまつわる話を、このブログの前身である<キャリア・キッチン43『生き方名人』(04年6月21日>に次のように書いた。
生きかた名人―。ウーン、何でこんな書名にしてしまったのだろうか。日野原重明さんの「生き方上手」以来、「~上手」や「~名人」の書名が増えているので、筆者の反対を押し切って、編集者が売らんがためにムリヤリつけたタイトルではなかろうか。池内紀(いけうち・おさむ)さんの本を目にして、そんなことを思いました。
この本には書名にそぐわないことが二つあります。一つは著者の池内さんです。池内さんはドイツ文学者で、ゲーテやカフカの研究や翻訳で知られた碩学(せきがく=学問が広く深い大学者)です。「新訳ファウスト」では毎日出版文化賞、「カフカ小説全集」では日本翻訳文化賞を受けています。旅のエッセイでも賞をお取りになっているほどで、一流、洒脱(しゃだつ=俗気がなくてさっぱりしていること)なお人柄です。売らんかな、の書名は池内さんにはどうも似合いません。
もう一つ、書名とそぐわないのは、この本の内容です。この本の副題は「楽しい読書術」で、20人の作家たちが取り上げられています。その取り上げられ方が、実に痛ましいのです。目次にズラリ並んだタイトルを、まあ、とにかくご覧ください。
借金=内田百閒、飲み助=吉田健一、心中=太宰治、病気=堀辰雄、妬み=芥川龍之介、退屈=坂口安吾、借用=井伏鱒二、貧乏=林芙美子、反復=小川未明、気まぐれ=洲之内徹、おかし男=長谷川四郎、雑学=植草甚一、小言=三田村鳶魚、かたり=柴田錬三郎、腹話術=堀口大學、子沢山=与謝野晶子、メランコリー=若山牧水、偏屈=正岡容、ホラ=寺山修司、生きのびる=田中小実昌
どうですか、とても「生きかた名人」を紹介しているようなタイトルとは思えませんね。むしろ「生きかた下手」を執念で集めたように見えます。たとえば文壇の巨匠になってしまった井伏鱒二の「借用」を読むと、下手な生き方しか選べなかったやるせなさが身に迫ってきます。
たとえば井伏鱒二の代表作、「黒い雨」について語られた一部分を見てみましょう。
『黒い雨』は重松静馬という人の「被爆日記」を借りている。さらに重松夫人の報告や、同じく被爆した医師による記録「被爆の記」などが補助的に使われた。
井伏鱒二が世を去る直前のことだったが、豊田清史『『黒い雨』と『重松日記』』という本が出た。
なにか胸が詰まってくる行(くだり=文章の一行)ですね。豊田さんは「黒い雨と重松日記」で何を突き止めたのでしょうか。
「自選全集」の収められた「黒い雨」は379頁、そのうち創作部分は198頁、資料による引用が181頁あった。
池内さんは井伏鱒二のこの行為を、盗作とはいわず借用と言っています。その井伏鱒二の借用グセは、長編のすべてにわたっていたようです。しかも借用方法は極めてユニークです。
『多甚古村』では、甲田という村の巡査の日誌を用いた。わざわざ駐在日誌なるものを創作して、それを語り手が編み直したというスタイルにした
何と自分で資料を創作して、それを引用したというのです。「さざなみ軍記」はもっと手が込んでいます。平家一門のある少年が京を捨てて逃げのびる日記を創作し、それを現代語訳にして「逃げて行く記録」として発表されました。日記はその後さまざまに訳されて、「逃亡記」「西海日記」「早春日記」「さざなみ軍記」となります。
他人のものを借用するだけでは足りず、自分で資料を作ってそれを何度も借用するのは、もはや借用フリーク(freak=ひとつのことに取り付かれた人)と言わざるを得ないでしょう。
あの有名な『勧酒』、ハナニアラシノタトエモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダは千武陵の漢詩、「花発多風雨/人生足離別」を、井伏鱒二が名訳したものとされてきました。しかしこれも、中島魚坊という人の訳を借用したとわかってきたそうです。
井伏鱒二の借用グセの底深さにも驚きますが、芥川龍之介の妬みも尋常でありません。
大正一三年七月、芥川龍之介は軽井沢へ出かけ、ひと月あまり滞在した。そのとき片山広子と知り合った。~夫ともども家族で避暑に来ていた。~佐藤春夫がノートを読み返しているうちに気がついたこととは何か? 作者がたえず立ちもどったところであって、一つは恋人の寝姿であり、もう一つは、その夫への嫉妬である
話が前後しますが、芥川の死後にこれまで出版されなかった詩稿を堀辰雄が編集し、そのとき雑然と書き散らされたノートだけが採録されませんでした。それが死後3年目に、佐藤春夫によって「詩集 美しかれ、哀しかれ」として編まれます。佐藤春夫はこのノートの解読に渾身の力を振り絞ります。さて、もう一度この部分の出だしからのリフレインですが、
佐藤春夫がノートを読み返しているうちに気がついたこととは何か? 作者がたえず立ちもどったところであって、一つは恋人の寝姿であり、もう一つは、その夫への嫉妬である。
かそかに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
こよひはきみも冷ややかに
ひとりねよとぞ祈りなる
この四行詩は斜線で消されているが、すぐ次の頁に二行目を省いた形でしるされ、それがまた斜線で消されて書き直された。
かそかに雪のつもる夜は
ココアの碗もさめやすし
こよいはきみもひややかに
ひとりねよとぞいのるなる
二行目が暖炉の柴になったり、ココアになったり変化するが、最終一行はいつも同じで、それが少しずつ言い換えられる。
ひとり寝(い)ぬべきひとならば
ひとり寝ねとぞ思ふなる
幽かにいねむきみならば
おりおり注釈をはさみながら、佐藤春夫は執拗に「詩筆の彷徨」を追っていく。思う人には、なんとしても夫とではなく、ひとりで眠ってほしいのだ。
ひとりいねよと祈りつつ
ひとりいねよと
ひとり
きみも(消)
さては(消)
何度も消して、あげくのはてに「幽かにひとりいねてがな」などと「窮余の方法」も考えた。
ひとりいねよと祈るかな
ひとり小床にいねよかし
ひとり幽かにいねよかし
ひとりあるべき人ならば…
こんな調子で、大学ノートの三分の二の頁が「ひとり寝問題」に費やされていたというのです。この先は〈ひとをころせどなほあかぬ/ねたみごころもいまぞしる〉などと次第に物騒になってきます。これは警察に押収されたストーカーのノートといっても通りそうです。
この項のお終いには、佐藤春夫もまた妻の千代(この頃、谷崎潤一郎と離婚して佐藤春夫の妻になった)に対して「ひとりねよとぞいのるなる」なかで、芥川の詩稿を読み返していたことが明かされています。
芥川龍之介も佐藤春夫も、ストーカーとその仲間たち、といっても良いほどの狂気と執着の中で、破滅の淵を覗いています。おそらくそのような自分の業(ごう=理性ではコントロールできない心の動き)に対してずいぶんと嫌気が差したこともあったでしょう。これまた「生きかた名人」とはほど遠い生き方です。
その一方で、この本を読み進めていくと、覚えのある懐かしさに触れてくる気がします。坂口安吾の凄まじい退屈振りや吉田健一の人間離れした飲み助振りは、私の体験の外側にあるものですが、それでも、何か懐かしい。この本に登場する作家が持つマイナスが、私の心を拡大していくと、その心のどこかにちゃんと収まっていて、じつは自分の原風景と重なってくるのかも知れません。
この作家たちのすごさは、平凡なわれわれ(少なくとも私)と違って、身のうちにあるものならたとえマイナスの特性でも、それを極大化させようとする土性骨を持ち合わせているところです。嫉妬も借用も、病気も貧乏も、心中も借金も、それらを極大化させ、藻掻き苦しみ、他の誰でもない「自己」を彫刻していくところです。
池内さんが「生きかた名人」としたのは、このことだったのではないでしょうか。マイナスを小器用に覆ったり抑えたりせず、存分に苦しみながらもそれが生み出す力を活用し、ちょいとした人当たりの良さを盾にしてコマゴマと生きるなんぞはせぬ覚悟を持った「いびつ人間」こそが、生きかた名人である、そうおっしゃりたかったのではないでしょうか。
この本のあとがきを読みますと、池内さん自身も、デコボコ特性の片々に悩まされたことがあったのだとわかります。
妬みなどあまり思わないタチだが、四十代のころ、一度だけあった。芥川龍之介の詩稿ノートを読んでいて、まざまざと思い出したから、まさしく身をやくような「妬みごころ」の状態だったにちがいない。 自分の特性に苦しみ、もてあまし、ヘマをし、とどのつまり、書くことによって龍之介のいう「危機」を脱した。あざやかな作品にした点でいうと、ヘマなようでいて、なかなかの「生きかた名人」というものではなかろうか。
~なるほど自分の特性なり悪癖に追われ、逃げまどい、七転八倒した。悲劇である。それがしばしば喜劇になった。当人が笑いに転じて栄養にしたふしがある。その多少ともおかしな栄光と悲惨をつづり、わが偏愛する作家たちへのラブレターへとしよう――。
*『生き方名人』は文庫版になって『作家の生き方』に改題された。先月集英社から出版。